◎  天地書附はお道の信心の中心。お題目。

昭和四十四年六月二日  朝の御理解


X天地書附  「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり
 今月今日で頼めい」

X併 御理解第六十四節 「此方は、参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて、   遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをするやうになれ。」


 天地書附は、お道の信心の中心。いうなら、お題目であります。仏教の方たちは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というように。法華宗の人は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」をいうように、金光様の御信心はこれを唱え、これを行じてゆけば金光様の信心は自ずと分かって、徳を受けて行く又は、おかげが受けられる、ね。

 天地書附、「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい」。今月今日というのは、もう刻々という事だと思うのですねえ。毎日毎日じゃなくて、もう、刻々を和賀心にならして頂ける事を一心に願うというものがいつもなからなければなりません。

 どうしてこのーところを、天地書附と私共は簡単に申しますけれども、あの天地書附ということは、どうゆう事だ。生神金光大神、天地金乃神の前に書いてある天地書附とは、今日、私、ここんところをもう以前に、十何年も前でしたでしょうね、「天成地也」ということを頂いた事があった。

 天成というのは天が成就の成(じょう)ですね。地也というのは大地の地に対して、也という字は地の土へんに也と書いてあるでしょう、この也です。何百円也といったときに使います、なるほど、この天地書附がお道の信心のお題目だという事はね、天成という事は神様の願いが成就するという事だと思うのですよね。天成というのは神様の願いが成就する。どこに成就するかというと、人間氏子、一人一人の上に成る、成就していく、いわば神の願いが地上になるという事になりましょうねえ。神の願いが地上になる。人間氏子一人一人のうえに成就していく。そういうおかげというのは、もうここ、地の信心に極まったという事だと思うんです。ね、地の信心。地というのは大地の地ですよ。

 ですからまあーそれをまた分かりやすくいうなら、本当のおかげを頂く為には、ね、本当のおかげというのは、神様が下さろうとしておるおかげが私共一人一人に成るということですよね、まあ、一人一人私の上といってもいい。私の上に成就していくということ。そういうおかげを頂くためには、ね、地の信心に極まったという事。也ということはそういう意味だと思うんですよね。もういわば、天地日月の心になる事肝要なりとおっしゃる。最近、私が申しております黙って受けて黙って与えるという信心。大地のような信心です。もう、この信心に極まったと。

 まあ、そこんところはいつも繰り返し頂きますから地の信心の説明はいたしません。ね、天地の心というか、地の心というのは、神様の心というのは、黙って受けて黙って与えていくということ。そういう信心。もう、それに極まったとこういうのである。そういう意味でこの天地書附とこれをまあ、教祖様はおっしゃられ、そう呼ばれてきたのだと私しゃ思います。

 だから、私共は、「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり今月今日で頼めい」。今月今日をいよいよ自分の心の中に、それこそ泥(土)のような心。どんなに汚いもの、どんなに難儀なものをもってきても、それをきれいにその浄化していくというか、沃土にしていくというかね、いよいよそれを有り難いものにしていくというのでありますね。

 そこんところを今月今日ですがっていけという事は、もう刻々、ここのところに思いを極めておかなければならん。こうだと、お道の信心は、もうここに極まった。というように、思い定めておかねばならん。思い込んでおかなければならん。

 そこで、いわいる御理解六十四節。これは昨日も頂きましたところですけれども、昨日の朝の御理解を頂いて、もう御理解の六十四節の、あのように頂きまして、まあ、決定版だと、六十四節の御理解のいわば、こう、いろいろ頂いて参りましたけれども、昨日の朝の御理解は決定版だというようなふうに申しますし、私もそう思わして頂きましたけれども、まあだ、続きがあったという感じがいたしましたねえ。夕べの御理解を頂いておりますと・・・。

 例えば身凌ぎという見解が、昨日の朝のような見解になってまいりましたですねえ。身凌ぎというのはどのような事でもこなせれるという事であったですねえ。苦いものであろうが、臭いものであろうが、苦いもの食べたおかげで胃が強うなる。臭いものと思うておったが、例えばにんにくのようなものを食べて、いよいよ体が強うなるようにです、もうそういう苦いものやら、臭いものやらはいやだというのではなくて、それを頂いてこなして自分の血に肉にしていくという、それが身凌ぎと、いうように頂きましたですねえー、昨日の朝。

 そこでその身凌ぎという事が、今日の天地書附のですねえ、今言う天成地也という、もうこの信心に極まったという訳なんですね。「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり今月今日で頼めい」という、いわゆるもう、ここのところに極まっている。

 ね、又の御教えを頂きますと、信心とは、日々の改まりが第一と、信心とは、本心の玉を研くものぞや。とこうおっしゃるように、改まって、又なおさら、それを研いていこうとする。その事がです、なされなければ、ここのところの今月今日を刻々を神様にすがらなければおられん。たのまなければおられないというものが生まれてまいりませんし、実を言うとその問題はそう簡単に有り難くばかりは頂かれない。

 それがいらいらの元になったり、情けない思いになったりするような事でございますけれども、それをよくよく本気でそれを有り難く頂かしてもらおうと精進するところにです。その事を以て改まり、その事を以て研いていこうということになってくる訳です。

 そこで、その辺がはっきりしてくるでしょうが、いよいよ身凌ぎが出来てくるようになってくる訳ですね。金光様の御信心もここに極まっているんですからね。もう、本気でそうあらして頂こう。そうならして頂こう。本気で今日もそこに精進させて頂こうという、それが精進なんですよね。

 それで、夕べの御理解を頂いておりますと、またいわば、それの続きのような感じで頂きましたが、例えばそういういわば不平不足を言わなければならないような問題でも信心になってまいりますと、その事によってそれが有り難い事になり、信心を抜きにしますと、それは、いよいよ不平不足になってまいります。

 その不平不足になってくることだけならよいけれども、その不平不足をいわねばならないような事が、和賀心で受けられる、和らぎ賀ぶ心で頂ける、有り難く受けられるという事が、おかげを頂く元ならばです。今度は不平不足を言うという事は、それとは反対に困った運命が、そこから展開してくるちゅうのです、そこのところを頂いたですねえ夕べの御理解で。

 ですから、これはどうでも不平不足は言うてはいけない事をひとつ思うてみなければいけません。不平不足を言うだけならいいのです。問題がそのままちゃんと足踏み状態であればいいのです。ところが不平不足を言えばですねえ、必ずそれを信心で頂く事がおかげになるように、不平不足を言えば、それとは反対の事になっていくという事です。例えば、嫌な問題なら、嫌な問題が中心であってその嫌な問題を有り難く頂く事が、いよいよおかげを頂いていく、徳を受けていくという事になりますけれども。

 その嫌な問題をより嫌な問題にしてしまって、それを不平を言い、不足を言い、そこで悲しんだり、情けなかったりするという事は、いよいよ不平不足をまた、より言わなければならならないような事になるということ。だから、どうでもこうでもひとつその和賀心にならしてもらう、和らぎ賀ぶ心にならして頂くことは、なるほど今月今日で一心に頼めとおっしゃる、そこんところを頼んでいかなければならん事が分かります。

 そこで、私は今日は「その身凌ぎをするようになれ」とおっしゃる、そこんところをもう少し、その、まあ、その見方を深めていきたいと思うんです。

 昨日、私はある方のお取次をさせてもらったんですね。なるほど、話を聞くと大変な広大なおかげを頂いているんですよ。ところが、私はそのお取次をさせて頂いたのはですね。あのー「ちくわ」ですえ。ちくわ、食べ物のちくわ、ちくわかまぼこという、あのちくわ。ちくわの穴のもう大きなとを頂くんです。

 だから実が薄くなってきよる。ね、「戦後大きくなったのは、なんとかとちくわの穴」といわれる。それなんです。いわゆる実が薄うなってきよる。実というのは心である。心が薄うなってきよる。だからその中の穴ばっかりが大きゆうなって、いわば実の薄い信心になっていきよるという事。

 次に頂くとがですね。映画俳優に加藤大助という人がおりますでしょうが、あの加藤大助というのを字で頂くんです。どうぞ書いてみて下さい。加藤大助と書いてみて下さい。加とは加える。加わるという字でしょ、藤はふじ。くさかんむりに勝ですか。大助というのは、おお助かりと書いちゃる。ははあー!と私は思うたんです。ね、信心は段々、薄うなっていきよる。私が言うように砂糖の木と同じことでで信心の年数をくっていきよるに従って甘うなっていきよる。信心は年数をくっていくに従って、段々薄うなっていきよるけれども、おかがは受けておる。いうならば・・・。

 けれども、これはね、神様が、いわば、蓮根を食べてござるという事ですよ。神様は向かう先見て下さっておるという事ですよ。ちくわが長う大きゅうなってきよるという事は、信心も出来んのに、おかげを受けよるという事はこれは蓮根食いござるとですよ。この人はお商売をしとりますけれども、うんと儲け出してから、大きなお金でも、どんどんお供えさしてもらえば、もうそれが信心のように思うておるのです。金をどんどんお供えする事がおかげというのは、そんなことはおかしいでしょうが。

 神様はそういう、金銭のお供えを願っておられるのではなくて、どこまでも本心の玉を研くという事が信心。いわゆる信ずる心、真心、神心がです。いよいよ強うなっていく事を願うておられるのであって、お供えがどんどん出来るようになる事を願っておられるのじゃない。この神様は・・・・。

 だから例えば、そんならお供えなんかは、なるほど思い切って出来ますよ。その方は。ですから神様は、まあ、それに対して蓮根を食うて下さってあるようなおかげだという事になります。

 加藤大助というのは、私は最近、合楽の信心は例えば、藤の花の信心と。花がいっぱい咲いて、下から見上げる。見事に咲いた。金光教の御信心しござって、大変なおかげを頂かれたというのは、それは、藤の花のような信心である。下からなるほど、ハァーッと、おかげ頂ききっとらん者が見上げるようにあるけれども、実は信心は段々、下のほうに下がっていきよるのだという事。

 そういう例えば信心からです。合楽の信心は同じ藤でも富士の山のような信心にならして頂こうというのである。今の合楽の信心は、そこが、もう目当てなのである。だから、同じ見上げられるでも違うでしょう。だから、加藤というのは、いわば、昔の合楽の信心。昔の椛目時代の、藤の花の信心を依然として続けておるという事です。

 それでも、その大助で大助かりに助かっておるということである。大きなおかげを受けておるという事である。だからおかげだけを目当てにするならですね、例えていうなら、お参りはせんでも信心は分からんでも教えは頂かんでも本心の玉を研かなくても、今月今日、一刻一刻を和賀心になる事に精進しなくとも、おかげを頂くだけなら、例えば金銭のお供えをどんどん出来るようになるという事だけども、おかげが受けられる事が分かりますけれども、それはいよいよ心が薄うなっていく信心です、それでは。

 ね、だからおかげを頂くひとつの手にというかね、テクニックというんですか、それにはいるのです。けれどもそれでは、信はそれこそちくわと同じで段々薄うなっていく。

 最後に頂きました事はですねえ、[大きな杉の木のような木を根から切ってあるところを頂いた。きれいな年輪がいっぱい見えるけれども肝心要の心が腐っておる。]というお知らせでした。見掛けは立派に育っていきおるようにありますけれども、肝心要のその木の中心になる心が腐っていきよる。どういう事になりますでしょう、この木を切った時に、はたして役に立つでしょうか。そういう信心ではそういう結果にしかならんのですよ。いかにも大きな木に育っていきよるごたるけれども、中がうつろになっていきよる。これじゃ、いよいよの時に使いものにならんでしょう。

 私共は、本当によくよくですね、今日、私は改めて、また昨日から昨夜、そして今朝にかけてこの六十四節を頂いて、本当の意味でひとつ身凌ぎの出来る信心にならきゃいけない。でなかったら馬鹿らしい。そこで天地書附というところを天成地也と、本当に神様が下さろうとするおかげというのはです。ここに極まった。

 ちくわの穴が大きゅうなって。加藤大助。それから今のその木が段々いわゆる年輪が段々大きゅうなって、はっきりしてくるけれども大きゅうなれば、大きゅう成る程、中の心も腐っていって、それがしまいにはうつろのようになってしまうでしょう。これでです、何十年間信心は続けられておかげは頂いても、いよいよさぁ本当の信心の役に立たなきゃならんという時に、神様が役に立てようとして下さる時に、本当に役立たない。

 あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけるというものにならない。よくよく私共がここのところを心得させてもうてです。心の詰まった、しっかりとした信心の目当てが、どこまでも本心の玉を磨く事にあり、日々の改まりにあり、刻々に願わして頂く事は私の心の上にどのような事柄でも、和らぎ賀ぶ心で頂かしてもらえれる信心。不平不足で受けなければおられない事柄でも、それを有り難しと受ける。昨夜の月次祭後の教話の中には、その受けるという事が本当な事だと頂きましたね。それが本当な事だと・・・・。

 だから結局、本当な事が分かるという事が身凌ぎが出来るという事。その本当な事というのを、鳥栖の上野さんの例を以て申しましたでしょうが、あんな広大なおかげを受けられた。その過程をお話聞いておると、あゝ、なるほど大家からやかましゅう言われた。もう、かゝえ出すように言われた。血の涙が出るようにあった。けれども、その時に血の涙が出るような情けない思いをすることは、嘘であったことが最後のおかげになってきた時に分かった。ですから、分かったら、そう歯痒がらんでもよかった訳です。

 そこで話をここで聞かしてもろうて、御理解を頂かしてもろうて、それこそ二十年間も住み慣れたその家に執着しておった。俺は抱え出されても動かんぞ、というような執着の心を持っておった。執着の心をスパーッと捨てゝ、その事をお礼を申し上げる気持ちになったら、現在のおかげになったちゅう事。本当なことが心の中でスパーッと分かった。といったような事を昨日頂きましたですね。その本当なことなんだから、それを有り難く頂くのが、それを例えば、不平やら不足で受けておるんですから、本当のおかげになってくるはずはない。

 大変、入り組んだお話になりましたね。けれども、まあ、いうならば、入り組んでまいりましたけれども、そのひとところ、ひとところを出来るだけ分かりやすくしたつもりですから、もい一辺、よく吟味して、いわゆる、要は身凌ぎの出来る信心にならして頂く事を願いとして、信心を進めていかなければならない。天地書附をいわゆるお題目を何十辺何百辺、繰り返して唱えてもです、もうこれに極まったと。おかげの元、徳を受けていくのは、これ以外にない。天成地也と定まったところからです。そういうおかげが受けられる。

 私はね、思わしてもらうのにお道の信者の中にはずいぶんやはりいろいろおかげ受けて、本当に人が見上げるようなおかげを頂いてある方がたくさん有りますよ。合楽にはないけれども他の教会には有りますよ。けれども、その人達がはたして大きゅうなっていけばいくほど、信心が分かれば分かっていきよる程、実意丁寧神信心がでけて、いよいよ自らを低うして毎日を過ごさせて頂き、和賀心が頂けるのが楽しみで信心が大きくなっていきよるのならいいけれども、大きな慢心ができてです。大きゅうはなっていきよるけれどもです。俺を見れ、といったようなその横柄な信心になっていきよるとするならです。それは中はいよいようつろになっていきよるだけの事。いよいよの時には役に立たない信心ですから・・・・。幸い合楽の人達はまあだ、そういうおかげを頂いていないから幸いです。

 私共は、ここんところをです、もう本当に身の詰まった、心が腐ってゆかない、蓮根食うてもらうておかげ頂くのじゃない、こういう信心するから当然の事として、神様がいや喜んでおかげ下さるといったようなおかげを頂いて大きゅうなっていかなければならんと思うのですね。どうぞ。